私たちの身の回りにある二律背反 鈴幸商事株式会社 柿崎茂久 「二律背反」を辞書でひくと、「互いに矛盾する二つの命題が、どちらも成立すること」とある。一見、非合理・理不尽に思えるが、実際は私たちの身の回りに沢山存在するように思う。 「逢いたいけれど、逢いたくない」「分かっちゃいるけど、やめられない」 これは厳密な意味での哲学的な「二律背反」ではないが、歌謡曲にはこのようなフレーズがよく出てくる。それは歌謡曲だけでなく、一流の文学作品にもその主題として描かれている。否、極論すれば、二律背反こそが文学の主要なテーマと言える。 その一方、多くの人はこのような二律背反を嫌い、またその存在を否定しているように思われる。なぜならそれは周りから自分の優柔不断や、ある意味で無能の証とされるからである。「自分の意見がはっきりした人」は世間で評価されるし、私たちは子供のころからそのように教育されてきた。しかしながら二律背反をテーマにした歌謡曲や文学作品の多さは、私たちがいかに多くの二律背反に囲まれているかを表している。 私たちが思い描く心象世界は主観的なものだから、自分の棲む世界にどれだけ二律背反の存在を認めても、それはその人の勝手である。それでは私たちの主観から離れた世界、たとえば物理科学の世界ではどうなのだろうか。そこにも二律背反は存在するのだろうか。 いまQLTで読んでいる『思考のすごい力』で著者のB.リプトンはこう書いている。「原子のレベルでは、物質は確実に存在するわけではない」「原子には物理的な構造など存在しない」「宇宙は一つにして分かつことのできない、ダイナミックで全体的な存在であり、エネルギーと物質がからみ合っているので、両者を別々のものとしては不可能なのだ」 つまり私たちが確実に存在すると思いこんでいる「見える」世界も、私たちがその存在を疑問視する「見えない」世界と一体となってこの世界を作りだしているのである。つまり物理学においても、その世界は「どちらか」ではなく「どちらも」なのである。そしてこの二律背反への取り組みこそが、現代の最先端物理学となっている。 そもそも二律背反とは、一つの事象を別の視点から見ることである。そしてこの多様化した世界において、別のいい方をすれば、多様性ゆえにその奥行きと進化の可能性を維持している私たちの棲むこの世界において、一つの事象の視点が一つである必要性はない。 ここで気になる問題は、私たちが仮に一つの事象に対して複数の視点を持つことができたとしても、それを「同時に」持つことが難しいということである。 下の絵は有名な「だまし絵」である。ある見方をすると貴婦人であり、別の見方では老婆になる。人はその「からくり」を知れば、貴婦人も老婆も見ることができる。しかし貴婦人と老婆の「両方を同時に」見ることはできない。人が見るのは常にどちらか一方である。 以前QLTで読んだ『認識の進化論』のなかで著者のG.フォルマーは、これと同じような絵を例にあげて「われわれの無意識な刺激処理は両義性よりも一つの決定を優先させるのであり、この決定は少なくとも50%は正しいのである」と説明している。つまり私たちはこの絵のなかに貴婦人と老婆のどちらか一方、自分で「見たい」と思う方の姿を見ているのである。そして更にこのことは「無意識」の世界において、私たちはこの絵を半分しか理解していないということをも意味する。 私たちの身の回りにもこのようなことが、たくさん存在するのではないだろうか。多くの場合、私たちはそれに気付かず、自分の見たい方の世界で生きている。偶然もう一つの世界に気が付いたとき、人は二律背反のジレンマに陥る。しかしもう一つの世界は、初めから「そこ」に在ったのである。このジレンマから、私たちはどのようにしたら抜け出すことができるのか。 「分かっちゃいるけど、やめられない」ことが多い私にとって、これはとても難しい問題である。ただその解決の糸口は「どちらか」ではなく、「どちらも」を意識することにあるとだけは思う。 「逢いたいけれど、逢いたくない」 恋に悩む主人公は、この二律背反のジレンマを乗り越えることができたときに、新しい世界へ一歩を踏み出すのである。 |