コモンズの〈喜劇〉? - 「総有」を再考する - 横浜市役所 坪内 一
「公共と行政は、村では必ずしも一致していないのである」。群馬県上野村に住み、立教大学大学院の教授を務める哲学者の内山節は、著書の中で、こう書いている(『「里」という思想』新潮社、2007年、49ページ)。都会では「公共の仕事」は行政が担うものだが、村では「みんなでする仕事」を意味する、と。 「新しい公共」の理念が盛んに喧伝される現在、内山の素朴な見解には若干の違和感を覚えなくもない。しかし、明らかに言えるのは、こうした意識が、民法に規定されたわが国の村落共同体における入会権、すなわち土地の「総有」という観念と深く結びついていることである(注:法学用語としての「総有」と社会科学用語としての「総有」は若干意味が異なるが、以下の記述は主に後者の意で用いる)。 「総有」は、「共有」とは異なり、各自の所有地がありながらも土地全体に共同体的規制がかかり、成員同士で資源を自由に享受できる反面、勝手に自分の土地を処分できない仕組みとなっている。このように、土地をめぐる「所有・管理・用益」の3側面が絶妙なバランスを保っている「総有」の制度は、かつては封建的遺制とみなされていたが、近年、コモンズ論を研究する学者の間で再評価されつつある。たとえば、資源の共有化は成員相互の貧富の差を縮め、処分の制限は無軌道な開発を阻止し里山などの環境保全に寄与する、と考えられているのである(山田奨治「<文化コモンズ>は可能か?」『コモンズと文化』東京堂出版、2010年、17ページ)。 「総有」される土地は、類型的にはクローズド(ローカル)・コモンズの一種と考えられ、G.ハーディンの有名な「コモンズの悲劇」(=資源の過剰利用による荒廃)の舞台となるようなオープン(グローバル)・コモンズとは区別される。さらに、社会的共通資本の理論で有名な宇沢弘文のように、コモンズの概念自体がオープンアクセスを否定するものである、と述べる学者もいる(『経済解析 展開編』岩波書店、2003年、287ページ)。宇沢の主張に従えば、「コモンズの悲劇」は、40年以上も前に一介の生物学者によって書かれた、理念型に基づく経済学的寓話に過ぎない、という見方も成り立ちそうである。 だが、もちろん事はそう単純ではない。ハーディンの問題提起は、少なくとも2つの側面から現代でも意味を持つと思われる点に、言及しておくべきであろう。 第一に、企業人の立場から環境や資源の持続可能性について発言している白井信雄は、いま日本では、コモンズの「過剰利用」よりも「利用放棄」がより大きな問題となっていると述べ、ハーディンを超える新たな議論を展開している(「コモンズの悲劇再考」ブログ『サステナブル・スタイル』2007年11月17日)。 第二に、法学者M.ヘラーは、複数の所有者が互いに相手を排除する権利を持つことによる資源の「過少利用」を「アンチ・コモンズの悲劇」と名づけているが、それは「知的財産権の強化によって創造的な革新が妨げられている」現代文化の普遍的状況への警鐘として読み取ることができる(菅豊「ローカル・コモンズという原点回帰」『コモンズと文化』280ページ)。 これらは、コモンズをめぐる幅広い論議のほんの一端である。そもそも「コモンズ」という概念の定義自体多様に存在しており、まずは資源管理論・社会システム論の双方の立場からの交通整理が必要と考える。とはいえ、公共政策論の立場から言えば、先述した「総有」の制度がもつ今日的な意義を、コモンズ論の視点から、より深く考えてみることが、非常に重要なのではなかろうか。 そして、その際には、「公共」と「行政」のあり方の問題を避けて通ることはできないだろう。少なくとも、経済人類学者E.スミス等が「コモンズの喜劇」という言葉で逆説的に指摘したような、コミュニティの慣習的なオートノミー作用にバラ色の未来を描くことは、もはや我々には許されないはずだからである。 |